犬飼のマップ

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 奈良~平安時代の武臣の一人に坂ノ上犬飼忌寸(さかのうえのいぬかいのいみき)という人が、武功によりこの地を賜り、父子三代にわたって伝領しました。鎌倉時代(1185-1333)には「犬甘(いぬかい)」と呼ばれていましたが、後に漢字を「犬飼」に改められました。
この地に住みついた人たちは、政治や軍事とは関係のない技術を持つ人たちであったとも言われています。篠山城の建築工事や春日神社の建築の棟梁に犬飼の人の名前が残されています。

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大歳神社

 往古は初田の向山に浄福寺と共に鎮座していましたが、大宝2年(702)に現在地に遷座したと伝えられています。
この神社には「人身御供」の伝説が伝えられています。祭礼の夜、新兵六という猟師が犬を連れて待ち構えていると恐ろしい獣が出て来て犬と争いました。夜が明けると大きな古狸が死んでおり、以来この村は平和になり、村人達はその犬を慈しみ育てたということが、犬飼村の名前の起こりとして『篠山封彊志』に記載されています。本殿には日吉神社が合祀されていることから、申の日と戌の日に祭礼が行われます。また、松尾神社・八柱神社・稲荷神社・天満神社・秋葉神社・金比羅宮も合祀されています。

立町塚

 往古、向山の浄福寺にあった大歳神社に「人身御供」をあげていた頃、村人達がこの塚に立って一心にお祈りを捧げていたという伝承があります。
写真の中央にかろうじて細長い楕円形の部分が認められる所が「立町塚」と言われた場所です。
今は周囲の田圃の整理などによってなくなってしまいました。
「たちまち」は「立って待つ」という意味かも知れません。
写真の右(東)方向が「向山」になります。

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平尾稲荷神社

赤い鳥居に沿って山を登っていくと「平尾稲荷」神社があります。以前は子ども達の奉納相撲がおこなわれていました。
この神社の少し上の尾根筋に「平尾山古墳」という円墳があり、昭和38年(1963)、近くで遊んでいた子ども達がたくさんの須恵器を発見しました。調査の結果、直径5㍍ほどの円墳で、5世紀中頃のものと推定されました。
この稲荷神社の詳しいことはわかりませんが、古墳と何か関係があるかも知れないとのことです。

観音堂

平成元年(1989)に、お堂が修復されましたが、ここの観音様は、元は大歳神社の「本地仏」としてまつられていた木像の『十一面観音菩薩立像』です。
明治になって「神仏分離政策」が布かれたため、明治13年(1880)に現在地にお堂を建てておまつりするようになりました。初めの頃は前の広場に「籠り堂」があって、青年会が夜学の教室や集会場としても利用したそうです。
お堂の右には『行者さん』と『薬師如来』、左には『毘沙門天』と『山の神』がまつられています。

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相杦喜兵衛の碑

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佐藤きく子の墓

力士碑 と クリスチャンの墓

「金比羅山」の山裾の旧道の切り立った擁壁の上に古い墓地があります。墓地の中に、嘉永3年(1850)に門人達によって建立された力士『相杦喜兵衛』の碑がひっそりと建っています。力士の顕彰碑は主要街道に面して建てられるのですが、実はこの前の道が往時の主要街道でした。昭和40年(1965)頃の道路改修に際して墓地の中へ移設されたものです。
『喜兵衛』の人物像は伝わっていませんが、当野の舟瀬橋のたもとにも『相杦弥輔』の碑があり、二人は師弟関係にあったと思われます。
すぐ傍には篠山藩士の佐藤権右衛門の四女で、クリスチャンだった『佐藤きく子』の墓があります。1892年(明治25年)9月4日永眠と刻まれ、十字架が刻まれています。キリスト教は旧藩士の子弟の女子に多くの信者があったと言われています。

たいようさん

 「太右衛門さん」が訛って「たいようさん」になった言われています。
江戸時代のある年に大変な飢饉が村々を襲いました。お米が不作で年貢を納めることが出来ず、犬飼村の太右衛門と儀衛門の兄弟が直訴をしました。
直訴は認められ年貢は免除されたものの、直訴の罪により二人は打ち首にされてしまうのです。
太衛門は、「首から上の願いを必ず叶えてやる」と言い残しました。以来、「たいようさん」にお参りすると 顔や頭の出来物などが治ると信仰されて来ました。
村人はお堂を建てて彼をおまつりしました。儀衛門さんは前川墓地の入り口にまつられています。

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田松川運河

明治6年(1873)、篠山二階町の豪商であった平野恭蔵が、篠山川(八上上村)と武庫川(草野村)を拓き、船で荷物を運ぶ運河の計画を、当時の管轄であった「豊岡県」に提出し採択されました。県の参事であった「田中光儀」と篠山支庁詰めの「松島潜」が企画して行きました。二人の名前を取って『田松川』と呼ばれるようになりました。
犬飼~初田、弁天街道などには、今でも運河であった形跡を残している所があります。
写真は犬飼の東を通る運河で、南矢代の「一里松」跡付近から初田まで一直線に作られています。
明治7年(1874)2月21日には「船始め」の式典が盛大に行われ、通運会社が設立されて営業が始まりました。総工費は当時の金額で13,600円だったと言うことです。
しかし数年の内に道路が次々と整備され、運河の補修費用などもかさんで、西宮までの開通を計画していたものの、廃業に至ることになりました。