松尾山関係は別ページで掲載しています。
不来坂の地名の起こりは、「この坂」が訛ったもの、平家の軍勢が来なかったので「不来坂」となったなど数説がありますが、義経の軍勢が「ひよどりごえ」に向かう途中で、平家が待ち伏せしていると思ったのにやって来なかったので、「不来坂」となったというのが大方のロマンのようです。この集落には義経にかかわるものがあちこちに見られます。
創建の年代は不詳ですが、承応2年(1653)の検地の際に除地(無税地)に指定され、延宝2年(1674)と弘化5年(1848)に社殿が再建されました。
祭神は大歳神・御年神・若年神の3神です。
夕日に映える境内の紅葉は抜群の景色です。
なお、鳥居に掲げてある額には『大年神社』と書かれています。
今の国道372号線と住山へ入る市道の分かれ道の山(八幡山)の中腹にありましたが、大正9年(1920)に道路の大改修工事もあって、大歳神社の境内に遷されました。当時は今の村の中の道が今田へ抜ける道路でした。そして、「小社合祀」が奨励された時代でもありました。今でも旧道から元の八幡神社へ向かう細い道の跡が残っています。
義経が武運長久を願って挿した鞭が、やがて根付いて大きく茂ったのですが、木の名前を知らなかった村人達は「ななしぎ」と呼びました。現在、その四代目の幼木が八幡神社跡にも植えられています。
薬師堂
浄土来迎の絵馬
元は松尾山高仙寺にあったものですが、江戸時代に不来坂の地内の「シバ」と呼ばれる場所に遷され、「松尾山円福寺」と称されていました。
その後、江戸時代に2度ほど場所が遷されていると伝わっています。
堂内には『薬師如来座像』と『浄土来迎の絵馬』(地元では『雲上の死人』と呼ばれている)などがまつられています。
薬師堂の中には、ご詠歌の扁額が奉納されています。奥書に「不来坂村 松尾山円福寺」とあり、今もこの薬師堂に当時を偲ぶ物が残されています。
大年神社の境内に『六十六部廻国供養塔』が立っています。願主2人によって、明和2年(1765)3月18日に建てられたものです。
ここの廻国塔は宝篋印塔の形になっています。元は別の場所に建てられていたものを大歳神社の境内に移されたと考えられます。部品が崩れ落ちていましたが、幸いにも全部揃っていましたので、村人達によって平成23年(2012)に移築修復されました。
往昔、この付近は不来坂村の北の境でした。村に禍が入って来ないようにと賽の神をまつったり、葬送用具の「捨て処」でもありました。今は地蔵様や供養塔・墓石などを含めて『お地蔵様』としてまつられています。
この場所の南側に幅の細い道跡が残っていますが、かつての八幡神社へ通じる道の跡です。
竹林の一帯は、かつて『茶碗山』と呼ばれていました。『篠山藩日記』の文化5年(1808)6月23日のところに「古市村にて陶工相企試焼御聞届」とあり、その後、天保2年(1831)1月2日の火災による焼失までの23年間、「古市焼」の窯があり、「磁器」が焼かれていました。
今も竹藪の中には窯の痕跡や磁器の破片を見ることができます。
陶石は見内村や、古市の西の山(天神山)から掘り出されました。天神山の中には陶石を掘ったと思われる跡を見ることが出来ます。
不来坂峠に架かる高木橋の傍に力士「花車」の顕彰碑が建てられています。「花車」は不来坂の人で、大変な人気を博しました。顕彰碑は明治22年(1889)に門人達によって建てられました。
左の追悼碑は古市小学校に関係した学務委員・教員・生徒らを追悼して明治31年(1898)に建てられたものです。小学校が現古市公民館の場所から今の波賀野新田の地へ移転する2年前のことです。
元は不来坂村の古市寄りの道端にありましたが、道路拡幅工事のために現在地に移築されました。
源義経が一ノ谷の合戦に向かう途中、不来坂村の八幡神社に立ち寄り、「源家長久ならば芽を生じ盛大に繁茂せん」と、持っていた鞭を地面に挿しました。
鞭はやがて芽をふき、大木に成長しました。写真は3代目の木です。3代目の枝を挿し芽した4代目の若木が、元の八幡神社の跡や大年神社の境内にも植え育てられています。
因みに、この木の名前を知らなかった村人は、この木を「ななしぎ」と呼び伝えていましたが、「春楡(はるにれ)」という木です。
国道372号線と住山へ通じる市道との三叉路の東の山の擁壁の上に「ななしぎ4代目」が植樹されています。
この場所はかつて八幡神社があった場所で、義経が鞭を挿したところと伝えられています。