南矢代はかつては奥村・口村という二つの村でしたが、大正2年(1913)に合併して「南矢代」となりました。戦国時代には酒井主水介が「矢代城」を構え、近代にはいち早く学校が造られた村です。
酒井市太郎氏著の 『多紀郡酒井庄南矢代部落史年表』によると、創立は文保2年(1318)に、酒井信綱が平氏の祖である葛原親王をまつったことに始まるといわれています。
本地仏は薬師如来の懸仏で、前立に毘沙門天がまつられていたといわれます。
『一の宮』は荘園の中心的神社であることが多く、元は犬甘保(いぬかいほ)の『一の宮』であったかも知れないと言われています。
創立年月は不詳ですが、社伝によると、祭神は祇園牛頭天王の皇子大穴円尊とし、松尾山高仙寺の東麓の守護神とも伝えられています。
『多紀郡酒井庄南矢代部落史年表』によると、「延文年間(1356-61)大歳神社に葛原親王を祀ると伝えられる」とありますが、酒井氏の先祖をまつったものという説もあります。
明治44年(1911)に森の坪の稲荷神社(矢降稲荷大明神)を合祀しています。
往昔、村内の宮ノ谷の山麓に一宇の菩提所があり、浄蓮寺と言いました。明智光秀の「丹波攻め」の際に兵火に遭って焼失しましたが、その頃は総本山知恩院末の寺でした。
寛永10年(1633)に現在地に再建され、義岳山西山院宗岸寺と公称し、慶安3年(1650)からは光忠寺の末寺となりました。
光忠寺は浄土宗宝林山光忠寺といい、形原松平の3代目の信光の子の菩提を弔うために2代の貞副によって開創された寺で、篠山へ転封になった慶安2年(1649)に寺も篠山に移りました。その後亀山藩(亀岡)に転封の時に寺も亀岡に移りました。
本尊は阿弥陀如来です。
江戸時代までは『多紀三山} と言われる中の一寺であり、松尾山の頂上付近にあって、法道仙人の開基と伝えられています。古くは文保寺と一つの寺であったといわれています。
松尾山には、往古は25坊の塔頭があり、貞享年中1684-88)には23坊が残っていると『篠山領地誌』に記載されています。
大正2~10年(1913-21)にかけて現在地に移転されました。
本尊は十一面観音菩薩です。そのほかに、酒井一党の木像4体もまつられています。(油井尾上城主の木像は古市の宗玄寺にまつられています)
集落の中の旧道の家並みの西側に入った所(現玉津研修センターの西側)に「矢降稲荷大明神」がまつられていました。
明治末期の「小社合祀奨励」により、大歳神社に合祀され、今は記念碑が建てられています。
この神社は、義経が鵯越に向かう途中、義経軍の斥候が放った知らせの矢文が飛んで来た所ということから、「矢降」の名前が付けられたと伝えられています。どんな内容の文が届いたのか知りたいところです。
左の常夜灯は旧道に沿って、「矢降大明神跡」への路地の角に建っています。
右の常夜灯は、国道から東に「大歳神社」などがある方向に入ったところに建てられています。
どちらも大きな石を棹に使われ、年代物の常夜灯です。
矢降神社跡前の常夜灯
旧道沿いにある常夜灯
明治5年(1872)に学制が公布され、寺子屋が矢代学校になりました。明治16年(1833)に、矢代口・矢代奥・犬飼・栗栖野・矢代新が資金を出しあって「矢代学校」が竹ノ下174番地に新築されました。
その後「玉津尋常小学校」となり、明治36年(1903)に現在の玉津研修センターの場所に新築移転されました。
昭和29年(1954)、校舎が改築されることになり、この写真はその建物が解体され、新しい校舎になる直前にスケッチされたものです。
昭和32年(1957)には郡内(現篠山市)のトップを切って完全給食が実施されました。
昭和59年(1984)、南矢代分校・分園は閉校され、校舎は青少年健全育成の場として「玉津研修センター」となりました。
江戸時代、大沢新・初田・犬飼・矢代奥・矢代口・矢代新・波賀野・当野・栗栖野の9つの村の田圃のある所は大変な湿田で、多くの蛭が手足に喰いついて農民が困っていました。
船井郡殿田にある曹源寺の戒誉和尚から伝授された「蛭除け秘宝」のお地蔵さまの建立を藩に願い出ました。文政13年(1830)に願いが許され、「蛭除け地蔵」が山崎の山裾に建てられました。
お地蔵様の頭はなくなっていますが、今も山崎の高圧送電線の鉄塔の下の笹を分け入った所におまつりされています。
笹を分け入った所にあります
蛭除け地蔵さん
『若熊銀蔵』の本名は酒井銀蔵と言い、明治2年(1869)に起こった篠山藩最後の百姓一揆の際に、大山村の庄屋(郡代官)をしていた園田多祐に書いてもらった一揆の訴状を青竹の先に挟み、集団の先頭に立って篠山城に向かったと伝えられています。
篠山藩の全域を巻き込んだ一揆は、鉄砲隊の出動などによって鎮圧され、やがて間もなくリーダー達の捕縛が始まりました。銀蔵は捕縛の手が迫って来るのを察して自刃したと伝えられています。
碑は明治23年(1890)4月8日に、酒井重右衛門・酒井熊太郎・岩浜幸次郎・酒井定次郎・小島鶴吉・広島清太郎によって建てられ、今は高仙寺の前に移されています。
高仙寺の北側50メートルほどの所で、JRと国道が接近してカーブになっている所があります。
江戸時代には、このあたりに大きな松が植えられ、篠山城から2里(8km)の所として「一里松」がありました。今はその名残をとどめて、「一里松踏切」などの名前が残されています。
篠山から東への「一里松」は、日置の波々伯部神社の入り口に面影を残しています。
「一里松」があった付近
「一里松」の名残の名称
篠山産業高等学校丹南校が国道372号線の傍にあります。当野と栗栖野に近い場所ですが、南矢代の地区です。
丹南校は元は古市小学校や古市中学校があった敷地内に昭和25年(1950)に兵庫県立篠山農業高等学校古市分校(定時制課程)として設立され、古市小学校校舎の一部を借用し授業が開始されました。昭和50年(1975)4月には普通科に学科が変更され、昭和62年(1987)4月に現在地に校舎が新築されて移転しました。
JR南矢代駅からのどかな風景に囲まれた学校は、「ホタルの研究」でも有名な学校です。