村の東南の谷からエビスの形をした石が見つかり、これを道端でまつっていると町がたいそう繁昌しました。しかしやがて石像は持ち去られ町が衰微したということです。永い年月が過ぎて、再び蛭子が祀られたのは嘉永年間(1848-53)でした。今の場所に大きな建物が作られたのは明治30年(1897)のことです。
「昔話」と、話に登場する天理市丹波市の蛭子祠から、明治30年頃までの姿が推測されます。
古市の坂を下りて不来坂踏切に至る間の西側の山懐に「稲荷神社」があります。江戸時代、古市の大問屋であった横屋休兵衛が裏庭にまつっていたものをこの地に遷し、文政12年(1829)に神祇管領長上家公文所より「正一位」の認状をもらいました。
町の中央には庚申が祀られています。明治から昭和初期は南丹酒造の樽干し場でした。昭和5年(1930)に石灯籠が寄進され、お堂は昭和7年(1932)に寄進されました。どちらも中島五郎吉夫婦によるものです。この前の池は「えびす池」と呼ばれていました。
石橋稲荷社
庚申堂
真宗大谷派の寺院で、油井尾上城主氏盛の弟(二階堂秀香)の子であった久左衛門秀朝が仏門に入って誓珍と号し、その後、延宝4年(1676)に宗玄寺と号することになりました。
赤穂浪士の一人である、不破数右衛門との深い関係のある寺で、昭和7年(1932)から地域で「義士祭」が開かれてきました。
明治の学制が出来た頃、『益習舎』という学校がありました。
本尊は阿弥陀如来です。
市内でも有数の常夜灯ですが、建立は明治4年(1871)のことで、明治天皇即位式を記念したものではないかとも言われています。
常夜灯の建っている場所は、『宝暦8年寺社調べ』に出て来る「蛭子の祠」の記載に合致します。この池は、かつて「えびす池」といわれていました。初期の蛭子の祠が建てられていた場所です。
明治14年(1881)6月に、松尾山高仙寺にあった妙見堂を解体し、尾根伝いにこの地に運んで移築されました。
この地はそれ以前から「二十六夜」の宗教行事が行われてきた場所でした。「二十六夜」の行事は今は行われなくなりましたので、このお堂へ参拝する人も少なくなりました。
明治になって、荷車や馬車・牛車による荷物の往来が激しくなり、江戸時代以前からの古道では用が足せなくなり、新しい道をつくりました。その道がこのお地蔵さんの前を通る道です。
その後阪鶴鉄道の工事の際に石が必要となり、道を挟んで立っていた大きな岩を割って使用したところ、西側の小さな岩が泣いて悲しんだという『泣き岩』の伝承があります。地蔵堂の建っている岩を「泣岩」と呼んでいます。工事に携わった人にも怪我人がたくさん出たこともあり、この地にお地蔵さんがまつられることになりました。
道標
古市村道路元標
文化14年(1817)に大きな道標が立てられました。この時期は商業往来が全国的に盛んになり、「元伊勢」などへのお参りの旅も大流行しました。道標の立てられている場所は、江戸時代の「高札場」でもあり、伊能忠敬がこの地方を測量する起点にもなりました。
大正9年(1920)の公示により、市町村に1個ずつ道路元標を置いて起点とすることが定められ、道標の根元に元票を設置して、「古市村古市字南側35番地」が古市村の道路の起点になりました。
天保12年(1841)、現在の三木市横川町熊谷という所にまつられている『日限地蔵』を勧請して古市にお地蔵様がまつられるようになりました。以後毎年8月24日(旧暦7月24日)には道端にまつられて『地蔵盆』が催されています。
不破数右衛門の叔母(数右衛門の父の妹)が、古市の鍵屋へ嫁いでいました。数右衛門の父が赤穂藩を辞め、妹を頼って古市に身を寄せていましたが、やがて鍵屋の本家にあたる宗玄寺に寄寓して生涯を終えました。その頃、松の廊下の事件が起こったのです。数右衛門の娘は長じて神戸の寺へ嫁ぎ、その娘「るい」が宗玄寺へ嫁して来ました。
昭和7年(1932)に、古市に関係した不破数右衛門にちなんで義士祭が行われるようになりました。
戦後一時取り止められていましたが、昭和30年(1955)に子ども会の行事として復活したものが続いています。
昭和7年(1932)、国威発揚の一助にと、古市村を挙げて義士を顕彰することになりました。大きな顕彰碑を建て、義士会が組織され、義士祭が行われるようになったのです。
古市の門徒墓の一角に不破数右衛門の実の両親(岡野治太夫夫婦)の墓があります。治太夫の妹「熊」を頼って古市の鍵屋にしばらく滞在し、後に宗玄寺の屋敷で晩年を過ごした人です。
不破数右衛門碑
岡野治太夫夫婦の碑
江戸時代の旧道に面した墓地の入り口に3人の力士の碑があります。
ここは明治初期までは大阪に通じる街道でした。力士の碑は街道に面して建てられるのが通例で、塀は近年作られたものです。
墓と彫られていますが顕彰碑です。力士の顕彰碑の文字は深く彫られ、いつまでも残り伝わるように配慮されています。
小枝川(藤原弥右衛門)
明治4年10月建碑
(1871)
朝の川徳松
明治9年9月13日建碑
(1876)
若熊(酒井熊蔵)
大正9年9月13日建碑
(1920)
大石桜
野仏
古市と油井の境の山裾に大きな山桜かあり、毎年春には花を付けて楽しませてくれます。
桜の木の傍にはポツンと野仏がまつられています。
この桜の木の裾を昔の大阪街道が通っていました。江戸時代には淋しい峠道で、オオカミの遠吠えが聞こえたそうです。
明治になって学制が布かれ、古市村にも小学校ができました。最初は寺子屋やあちこちの私塾が学校とされましたが、すぐに統合されることになりました。
宗玄寺の南隣りの現在の公民館の場所に古市学校(後に高等科が設置される)がつくられ、明治33年(1900)に波賀野新田の現在の小学校に新築移転するまで、この地で子ども達が勉強しました。公民館へ入る今の道は、この小学校ができる時に作られました。
古市は古市地区の行政の中心で、役場が置かれていました。
前列向かって左から3人目は古市村最後の村長の西山貫三郎さん(昭和20年11月5日-30年4月14日在任)です。
見内村や古市村の山から焼き物に適した陶石が出て、古市の酒井三郎右衛門が陶工を呼び寄せ、不来坂に窯を築いて焼き物を始めました。それが「古市焼」で、江戸時代(文化5年~天保2年頃〈1808-1831〉のこと)に行われていました。
残り少ない焼き物の中で、口や耳が欠けていますが、「文化十二年亥五月 丹波古市焼」と書かれ、糸底には「福五」という作者の銘が印された醤油注が残されています。焼き物の名前・焼かれた時・作者の名前の三点がそろった珍しいものです。大正改元記念として創設された『古市教育参考館』(古市小学校内)に寄せられたものですが、その後紆余曲折の末、今では篠山歴史美術館に収蔵されていま
白磁に野菊の花2輪と、蝶4頭がデザインされた染め付けの醤油注です。
古市のパノラマです。左は1930年以前に撮影されたもの。右は2008年頃のものです。