古森は武庫川の東に位置し、古くは「油井村」の中でしたが、やがて分村した形でそれぞれの集落を形成していきました。今も地番に「油井」と呼ばれる所があります。古森の地名は「河守」が訛ったものという説と、「古宮神社」を「お守さん」と呼んでいたことが起源だという説もあります。
古宮神社は大正3年(1914)までは「地主大権現」と言われていました。また、この神社は天正7年(1579)に亡くなった油井城主の酒井上野介氏盛(秀正)の奥津城(墓所)とも伝わっています。
舞鶴自動車道の下をくぐって東へ山道を入ったところに「山の神」がまつられています。「山の神」は農業を守る神様で、冬の間は山に戻って過ごされると信じられています。
草野や古森が油井村から分かれて形成されるまでの時代、この地は酒井庄(古市地区)の南端にあたりました。
大将軍は地域の四囲を守り、村の中に禍が入って来るのを防ぐと信じられていました。
ここの大将軍の由緒や創立年代は詳しく伝わっていません。
公民館の北側に祠が建てられ、地蔵様や道祖神などと共に「六十六部廻国塔」がまつられています。廻国塔には享保21年(1736)9月と日付が刻まれています。
ここにおまつりされているものは、村の中のあちこちにまつられていたものが合祀されたものです。
また、古森公民館を借り受けて昭和23年(1948)から私立保育所が設置され、24年からは「古市村第1保育所」となり、昭和48年(1973)まで続きました。
公民館の広場に金比羅常夜灯が残されています。金比羅信仰が厚く、かつては「講」が組織されて、毎年何名かが村を代表して金刀比羅宮へお参りに出かけました。村人の道中の安全を祈って常夜灯が灯されたのです。
塔の竿の部分に「金」という字が刻まれています。
昭和7年(1932)7月1日、前夜来の大雨で武庫川が氾濫し、あちこちの橋が流され、大変な被害を受けました。中でも、堤防が決壊した古森は大きな被害に襲われました。
復旧工事が完了した昭和12年(1937)に、後世に被害を伝えるために「治水済民」の碑が建立されました。
古森村は武庫川が流れるものの、田畑は水面よりも高く、武庫川の水を利用することは出来ませんでした。
村人達は村の東にそびえる山の東側に大きな溜池を構築し、等高線に沿って延々と村の中に水を引き込んだのです。
今も春先の農作業の前に、村人達が水を確保するために「うら山池」までの水路の点検補修を続けています。
油井尾上城の重臣であったと伝わる上山肥後守の屋敷跡と伝えられている所があります。今は畑になっていますが、よく観察するとその面影を見ることが出来ます。
舞鶴自動車道ができた後で、村の中を周回できる道が作られました。その時、大きな石が道端から見つかりました。
油井尾上城の城主の子ども達の養育掛として使えていた人たちをまつった「乳母が塚」の伝承がありますが、場所がわからなくなっていました。
村の人たちは、出て来た大きな石を建て、「乳母が塚」とすることにしました。
山神祠より北へ20~30メートルの所に「山越えの水路」が通っており、その岸に「行者祠」がまつられています。
まつられているのは「不動明王」で、昭和の中頃に水路の発端の「うら山池」のほとりにまつられていたものを、この地に遷したと言われています。