東寺領としての大山荘園が成立した7年後の仁寿2年(852)、当野の字「竹の内」に七堂伽藍を擁する堂宇が創建されました。平安時代末期には歌人でもあった大江匡房が国司として任じられており、彼の歌に、「みづきものはこぶ舟せの加け橋に駒のひ津めの音も絶えせぬ」という歌が伝わっています。また、当野は古くは「主殿保(とのほ)」と呼ばれていました。
江戸時代の初めには、酒井三介秀澄が当野に居を構えて代官を務めていました。徳川政権になって、篠山に城を築く時、当野一帯の山中から築城に用いる石がたくさん運び出され、今もその残石をあちこちで見ることが出来ます。
当野の東の山を越えた所に大きな池が数カ所あって、その池にまつわる民話が残っています。
応永4年(1397)11月2日に社殿が建てられ、寛文2年(1662)11月に御神像を造立したと伝えられています。祭神は三穂津売命とされています。
境内には奥の院としてあった大歳稲荷大明神が、舞鶴自動車道の建設に伴い、場所を変えて昭和57年(1982)に新築移転されたほか、蛭子神社など16の小社が合祀されています。
神社には一対の狛犬が置かれていますが、大方の狛犬はお尻をつけて座っている姿が多いものです。
当野の大歳神社の狛犬は、お尻をグッと突き上げて頭を低くした姿勢で造られています。
ほかにはあまり例のない珍しい姿勢をしています。
浄土宗の寺院で、本尊は慈覚大師作と伝わる阿弥陀如来です。
『当野史』や『丹南町史』によると、「仁寿2年(852)七堂大伽藍の寺が「竹の内」にあったが、元暦元年(1184)源平合戦の動乱の中で義経軍に焼き払われた」と書かれています。
正和2年(1313)に阿弥陀庵として建立されました。明治13年(1880)に、浄土宗知恩院末に編入され、『松原山慈覚院徳円寺』となりました。
本堂の裏には、明治22年(1889)に31才で初代古市村村長を6年間勤めた酒井義太郎の頌徳碑があります。
当野周辺の山中は、いたる所で篠山城築城のための石材が切り出されていました。村の東の砂防堰堤の近くには、石切り作業の犠牲者の供養塔が集められています。かつて山中のあちこちに散在していましたが、村人達により集められておまつりされているものです。
大歳神社の南の道を中谷川に沿って上流に行くと、あちこちに巨大な石が残されています。これらの石には、石を割る鑿の跡がくっきりと残っています。
武庫川に架かる山内橋の西岸に巨大な石が二つ並んでいます。築城用石として二つに割ったあと、運び出されることなく、今日まで残っているのです。地元ではその形から『長持石』と呼ばれています。
武庫川の河床にもたくさんの大きな石が残されており、これも用材として運ぶ途中のままの様子なのかも知れません。
当野の入り口にあたる舟瀬橋の傍に力士の碑があります。元治2年(1865)に門弟たちによって建てられました。当野の中本善吉氏のご先祖であるということ以外に詳しいことは知られていません。
犬飼に『相杦喜兵衛』という力士の碑があり、両者は師弟関係にあったか、あるいは弥輔が「相杦」を襲名したのかはよくわかっていません。
力士の名前はいずれも深く刻まれ、主要街道に面して建てられています。
当野の山中に鉱物を掘り出した坑道があります。いつ頃に何を採掘したのかは記録にありませんが、坑道が栗栖野村にまで達しているという説もあります。
明治26年(1893)2月、この鉱口からは数百石(1石≒180㍑)の赤錆びた水が出ていましたので、この水を竹の樋で引き出し、村を挙げて『当野温泉』を営業することが持ち上がりました。阪鶴鉄道が古森を通り、舟瀬に駅ができることも期待のひとつでした。村人総出で半年後に開業することが出来ました。温泉は大正時代も続けられましたが、期待の阪鶴鉄道は別のルートを通りました。
温泉の水を取った鉱山の坑口は、舞鶴自動車道建設や、集中豪雨による山腹崩壊などによって、今では定かに見ることは出来なくなっています。
酒井義太郎氏
顕彰碑
徳円寺の本堂の裏には、明治21年(1888)の町村制の施行により、31才で初代村長を勤めた酒井義太郎の顕彰碑がひっそりと建っています。僅かな月給の村長でしたが、村長としての立場を通すために使用人を置き、毎日馬に乗って役場へ通ったと言われています。そのため6年間の村長を勤め終えた時はことごとく財産を失ったと伝わっています。
舞鶴自動車道の東側の古森集落との境付近に牛ヶ瀬村有の山林があります。その中に「トノ酒井文ヱ門墓」という墓石が、築城の時の残石の上に立てられています。明治期に活躍した当野の人物ですが、伊勢参りの舟が嵐で遭難し、帰らぬ人となりました。
古老によると、この付近から山越えで藍本に抜ける近道があり、伊勢参りの一行はその山道を使っていたということです。