江戸時代の初め頃までは、現在の油井・古森・草野の3集落は「油井」と称されていました。
「油井」の地名の由来は、油の滲み出る井戸があって、毎年宮中新年の儀式の灯火の油として用いられていたことによるという説と、至る所から水が湧き出るので「溢れ井」というのが訛ったという説があります。
また、前説の油の採取役が近衛の武士の酒井であったとも言われています。油の出ていた井戸跡と言われるものは、圃場整備が行われた後に撤去されて、今は見ることは出来ません。
油井の東の小高い山の上には、尾上城という酒井一族の南を守る山城があり、酒井上野介氏盛が統治していました。今も「松の木縄手」と呼ぶ道が東西に走り、往昔の歴史を伝える大歳神社が祀られています。
創立年代不詳。天正5年(1577)尾上城主酒井上野守秀正が再建しました。
宮中近衛の武士であった酒井一族がこの地に領地を賜り、赴任して来たのは年の瀬であったと伝えられています。一族は神社の宝物として「青江の太刀」を奉納して氏神としました。慌ただしい中で迎える正月であったため、酒井は正月飾りをしない風習がありました。
夏の馬場揃えの直会(なおらい)には、桐の葉に盛った「七品の食物」が振る舞われます。
正面境内入り口の石の橋は文化元年(1804)の架橋で、市内で最古の石橋と言われています。
大歳神社の境内には天満・八坂・金比羅・稲荷なども合祀されています。これは明治後期から大正初期にかけて、『神社合祀令」が出されて、村内の小社を合祀することが推奨されたことによります。
油井から今田へ抜ける旧道に面して住吉社の常夜灯が建てられています。このあたりは「西の奥」と言われ、今田へ抜ける峠は「オロ峠」と呼ばれています。
「ひよどり越え」に向かう義経の軍勢が通ったと伝わっています。
西の奥の谷に住吉神社があります。「住吉」は海洋系の神社で、近くには今田の小野原に通称「蛙の宮」があり、今田との関係が深いとも言われます。創立年代は寛文(1661頃)より以前と伝わります。
西の奥から今田へ抜ける峠道に面して墓地があり、その中に『荒鹿の墓』があります。
『荒鹿』は本名を藤岡清助といい、明治から大正にかけて活躍した力士の一人です。大正時代の初め頃に、世話人であった岡本徳三郎家の北に土俵を作り、紅白の幕を引き張り、各地から多くの力士が参加して荒鹿の「引退相撲興行」が行われたと伝えられています。
国道176号線に「油井不動尊前」というバス停があります。そこからJRの小石踏切を渡って西へ行くと、地元では「お不動様」と呼び親しまれる光芳寺があります。
遠くからも信者がお参りになる真言宗の寺院です。
天台宗の寺院で、往昔には古森の東の山中に大谿山極楽寺としてあったのを、応仁の乱以後に移転され、現在の地には明暦元年(1655)に遷されたと伝えられています。本尊は阿弥陀如来です。
境内の一隅には、油井学校を開いた福井一義先生の頌徳碑があります。
元篠山藩士の福井一義により、明治6年(1873)3月5日に油井学校が創設されました。明治9年(1876)より古市学校の分校となり、「益習支校印」を使用しました。
碑は「モー谷池(桃谷池)」の岸辺の油井学校跡地に建てられています。
灌漑用の池として村人達が築いた自普請池です。この池の水は特殊な成分が溶けているようで青々としています。
嘉永5年(1852)、古市の加茂屋長三郎が世話人となり、篠山の平野佐十郎が仲介者になって篠山藩から米100石を借りて池が築かれました。池の堰堤には明治41年(1908)に『村上長三郎記念碑』(加茂屋長三郎)が建てられています。
天神川にかかる国道の橋の南側あたりにあった大正天皇御即位記念の道標が、今は、東へ30㍍ほど入った天神川の堤防の所に移設されています。このあたりは国道などが新しく作られたために、往昔の様子がすっかり変わりました。
右側の半分埋もれている道標には 左 三田 と刻まれています。
三田の字の下は欠けてなくなっていますが、 大阪 と刻まれていたようです。
新橋から見た「城山」
(画面中央の頂上が城趾)
氏盛の碑と半六寄進の石灯篭
天神川と武庫川の合流点の北側にある小高い山の頂上に尾上城の跡があります。ここに城主酒井上野介氏盛の供養塔が建てられています。
脇に立っている灯篭は、上野介の子孫で小田原藩の家老として仕えた酒井半六が遙々送って来たものと伝えられています。その荷札と言われるものが今も油井の地に残されています。
尾上城主であった酒井上野介氏盛が一族の安泰を願って永禄年間(1560-69)に建てた宝篋印塔です。
尾上城の小山を正面に見る門徒墓の入り口に残されています。
いつの頃か、油井を流れる天神川に、お地蔵様が流れついていました。台石には「住山」と刻まれていたと伝わるのですが、もったいないと油井の村人が道ばたにおまつりしました。