波賀野は古くから農業の地として開けていました。今は地域の真ん中を鉄道や道路が通っていますが、民家や道は山に沿って配置され、中央部は松尾山から流れ出る波賀野川の水の恵みを受けて、大切な耕作地になっています。
元は見内村となっていましたが、見内から分かれて「波賀野」と称するようになったと伝わります。
東谷の山には、永禄年間(1558-70)に酒井右衛門兵衛が築いた城がありました。天正7年(1579)に明智光秀の丹波攻めにあい、滅亡したと伝わっています。
平安時代初期の天長7年(830)10月17日に社殿を建立して出雲大社を勧請したと伝えられています。祭神は大国主命です。
ここの神様は古来より「疫病除け」に霊験があると、多くの人びとからあがめられて来ました。
また境内に、「大日堂」があります。元は天台宗の東嶺山神宮寺が別当寺としてありました。
元は姫路の里に鎮座していたのですが、神意により波賀野に遷座したと言われています。享保20年(1735)10月7日付で、神祇管領長上の京都の吉田家が諸国の神社に位階や神号を授けた「宗源宣旨」により「正一位稲荷大明神」となりました。
社殿には相撲の絵馬があり、「波賀野山源之丞」の稲荷相撲の民話が伝わっています。
【宣伝用銅版画が残されています。やや誇張されています。】
稲荷神社の東に国道を挟んで石の鳥居があります。かつてはこの場所に東西をむすぶ道があり、JRの踏切もありました。
見内から流れ出る波賀野川の水を、上流の「中井根」から分けて山肌に水路をつけ、その水で水車を廻して陶石を砕き、「古市焼」の陶土に使いました。
水車を回して石を砕く臼は、最盛期には見内に15臼、波賀野に9臼がありました。天保2年(1831)以降「古市焼」が衰退しても、この陶石は篠山の王地山、立杭、三田、姫路方面へ焼き物の原料として販売されていました。
嘉永3年(1850)には、見内の山からは取り尽くしたので、古市山(天神山)から採掘しています。
波賀野の水車跡の一つは、今は『延寿堂』になっていますが、後の山肌には水路跡が確認出来ます。
右の写真は、明治38年(1905)5月7日に竣工された古市村戦没者の忠霊塔記念式典の写真です。
日本は日ロ戦争のまっただ中にあり、5月は日本海海戦があった月です。
明治38年(1905)にこの地に戦没者追悼施設が設置されました。当時は高い石塔が中央に配置され、神式で行事が行われていました。
石塔には「表忠碑 元帥侯爵山縣有朋」と刻まれています。
太平洋戦争が終わってから、木造の位牌殿が建設され、戦死者の墓石も各村へ持ち帰られました。進駐軍の追求を怖れて隠したのか、境内の地下には大砲が埋められていると伝えられています。
見内の二村神社の東方の、旧街道に面して大きな石の鳥居がありましたが、老朽化していたために取り壊されました。
かつて波賀野は見内村という大きな村であったということを見ることが出来ます。
昔はここから見内・波賀野方面と、当野・真南条方面への道が分かれている三叉路の地点でした。
この前に、在郷軍人会が「皇紀2600年」(1940)を奉祝して作った「時計台の跡があります。その地点から北東方向に細い道が残されており、真南条方向への旧街道の名残です。
その道を行くと、「樫の井の水」の跡に続きます。
二村神社一の鳥居跡の前にコンクリート製の時計台の跡が残されています。これは昭和15年(1940)に行われた『皇紀2600年』を奉祝して「在郷軍人会」が建てたものです。台座にはこの場所にあった道標が使われていると伝えられています。戦争中の歴史遺物の一つです。
時計台跡から細い道を行くと、右手に墓地があり、墓地の入り口に「豊島先生碑」が建てられています。現在の国道の跨線橋あたりに、篠山藩の年貢米を入れる郷蔵が建っていましたが、その建物を利用して篠山藩士の豊島熊次郎がこの地に移り住み、『成始軒』という寺子屋を起して子女の教育にあたりました。碑は明治21年(1888)に建てられました。
時計台跡
豊島先生碑
樫の井跡
道が少し膨らんでいる所
樫の井地蔵
時計台跡を通り、豊島先生碑を通り過ぎると、のどかな景色の中にコンクリート製の地蔵堂に出会います。元は他の場所にあったようですが、この場所に移されました。
地蔵堂の前を通る道は、当野や真南条へ通じる古道です。旅人が行き交い賑わったことでしょうが、ここに「樫の井」という泉があって、きれいな水が湧いており、旅人の喉を潤していたと伝えられています。今は新しい国道がついて水脈が変わり、水が出なくなって泉の跡も消えていますが、地蔵堂の斜め右の道端にありました。篠山市内には名水と言われる井戸が沢山ありますが、中でも黒岡の「玉水」、谷山の「生来の水」、波賀野の「樫の井の水」を『多紀の三水』といわれました。「名水」とは、どんな干魃にも水枯れしないで清らかな水が湧き出し、お茶に適していることが必須の条件でした。明治から大正にかけては、この水を使って「ニッキ水」や「みかん水」が製造・販売されていました。
新国道がついたため、途中が途切れていますが、波賀野の古道を北に進むと、田圃の畦に建っている『六十六部廻国塔』を見ることが出来ます。
さらにこの道を行くと、山からの細い溝が流れており、その溝の蓋に、出雲神社の近くにある古墳の石棺の蓋石が使われています。明治以後に運ばれたようです。
出雲神社の東側100㍍ほどの所にあるこの古墳は、石室をはっきり見ることができます。石室の上蓋の石は溝蓋として転用され、一つは山からの溝の蓋に、もう一つは出雲神社参道の石段の下の溝蓋になっています。
古墳に埋葬された人物は定かではありません。古墳は明治期に偶然発見されたと伝わっています。
波賀野は古くから拓けた所で、あちこちに古墳が見られます。
昭和15年(1940)、日本は『皇紀2600年』という神話に基づき、あちこちで奉祝記念の式典や記念物を設置しました。
波賀野の176号線から旧道に入って山道を分け入った所に高さ2㍍ほどの大きな碑が建てられています。裏には「日本山妙法寺」と刻まれています。時は太平洋戦争突入の前年でした。
戦死者追悼施設の一角には、『入江先生』と刻まれた顕彰碑があります。入江音十郎は篠山藩士でしたが、維新後に波賀野に住し、古市村の初代戸長(今で言う「村長」や町長」)を勤めました。戸長制度は任命制で、庶民の選挙によるものではありませんでした。出雲神社の前に「入江屋敷」と伝わる場所があります。
法華経塔
入江先生碑
出雲神社の境内にあり、現在のお堂は明治35年(1902)に上棟されたものです。本尊は大日如来坐像(塑像)で、ほかに木像の地蔵菩薩立像・聖観音菩薩立像・不動明王坐像がまつられています。
宝永3年(1706)に書かれたこの地蔵菩薩に関わる古文書が村に残されています。