見内のマップ

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松尾山関係は別ページで掲載しています。

見内は「二村神社」と深い関係にある村です。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)と共に天下るとき、最初に剣を落とし、次に鶏を降ろしました。「地面に突き刺さっておれば柔らかい土地なので鳴かず、突き刺さらずに倒れていたら鳴け」と鶏に命じました。剣は地面に突き刺さらずに倒れていたので、鶏は「コケッコー!」と大きな声で鳴いて知らせました。ここは安全な場所だと知った伊弉諾尊は伊弉冉尊を連れて天下ったと言われます。そして、見内に「二村神社」が創建されたということです。伊弉諾尊と伊弉冉尊の二尊を祀ったことから『二尊神社』と称されていましたが、やがて『二村神社』になったという説があります。
「神内」「御内」「見内」と村の名前が変わりました。二村神社をお護りする所から、この村は神聖な地域と考えられていました。

見内と住山に関係する「松尾山」「白髪岳」は別項で紹介します。

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二村ふたむら神社

伊邪那岐命(伊弉諾尊)座像がまつられており、延喜式内社で、天平勝宝2年(750)に正一位の神社とされています。小野道風の筆になる鳥居の額は社内に納められていると伝わります。
江戸期には境内に神宮寺があり、今も仏像をまつるお堂が境内にあります。
文明14年(1482)の祭礼の時に、座席のことで論争が起こり、ご神体・神輿、神器・古書に至るまで各村へ持ち帰り、それぞれ社を建立したと言われます。真南条の二村神社へは伊弉那美命(伊弉冉尊)のご神体を、味間の二村神社には神輿を、西吹や上板井、矢代新もそれぞれ神器や什器を持ち帰ったと伝わります。
神像は国指定重要文化財になっています。

東谷ひがしたに

古市地区内で一番大きな灌漑用の池です。見内・波賀野・波賀野新田立会の池で、つくられた年代は不詳ですが、古記録には

☆元禄2年(1689)矢代村・波賀野村・高仙寺三村立会いの山林地内に波賀野村より池地に使用願い出たるところ、三者論争に及びたるも松平豊前守の裁許により落着する。
☆享保5年(1720)三村立会いの山内に又新池築造の願いを出すも矢代村惣百姓中並びに高仙寺より田畑・茶園等の肥料無の様に相成りとのことにより承諾せず取り止め。
☆文政8年(1825)三者立会いの山地内に波賀野・見内村の新池築造につき替地境界確定のため願書を奉行所へ出す。

とあります。

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ガンコガシの伝承

見内村は「二村神社」を祀る神聖な村でしたから、村域に死者を埋葬することを慎みました。寺谷から尾根伝いに松尾山に登り、阿弥陀堂の境内に埋葬しました。
途中、尾根道に喰い込む切り立った崖があり、龕を落としてしまうこともありました。やがてこの場所を「ガンコガシ(龕ころがし)」と呼ぶようになりました。
村人が最後のお別れをしたであろう「焼香場」という所も伝えられています。死者を松尾山の阿弥陀堂へ葬するのは、正保年中(1644-48)頃までで、以後は波賀野の墓地へ葬送しました。
ガンコガシの地は、今は木が生えていますが1980年代までは急斜面の崩れ崖地でした。

二村神社での託児所

昭和10年(1935)代、 農繁期の頃には二村神社の社務所を借りて村営の託児所が設けられました。後列中央の口髭にネクタイ姿の人物は、当時の古市村長上田寅之進さんです。(大正9.2.5-昭和12.9.11在任)
農繁託児所は当野・油井・古森にもありました。昭和48年(1973)からは二村神社の北側の土地に保育園舎が新築され、「丹南町立第5保育所(のちに第4と改称)」がありました。

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